救われるのか?救われたいのか? 神は居るものではなく在るもの・・・

仕事の引継ぎ業務で忙しく、ブログ開始早々にもかかわらず

記事の更新が遅れてしまった・・・反省。

 

さて、突拍子もないタイトルですが、

別に僕がキリシタンだとか洗礼を受けたとかいう話ではなく、

先日、引継ぎによる商談相手の方が最近になって

キリスト教徒になった、というお話です。

 

本当に最近の話で、

「なんでなんですか?」と漠然とした質問をしてしまいました(笑)

 

相手いわく、「過去未来すべての人類の重荷を、罪を

背負うたキリストがいることを知り、肩が軽くなった。」

「フラットな気持ちで過ごすと自然と感謝が増え、不思議な縁など

今までは無かったような出来事が起こり始めた。」とのこと。

 

すごく充実しているような面立ちで、それはもう、

見ているこちらがほくそ笑んでしまうほどで(笑)

 

ただ、僕は神も仏も信じてはおらず、

その話を、こうやって人は何かを信じ、良い方向へむかうのかもな

と考えながら聞いていました。

 

僕の考え、と前置きしたうえで、神も仏も居ないと思います。ただ、

この相手の心には確かに神が在って、それを意識した行動によって

自身を取り巻く環境が変わる、もしくは見え方・感じ方が変わり、

幸福と呼べる方向へ歩んでいけるのなら、

それはとても素晴らしいことなのでは、とも考えます。

 

でもそれは神に救われたのではなく、自身が救ったのではないか。

マインドコントロールの一種では、とも思いました。

 

日本では宗教=カルトと良いイメージが無い国ではありますが、

他の皆さんはどう考えるのだろうか?

 

そんなことを考えながら仕事をする1日でした。

今日はこの辺で。